LAVENDERの日記

乳がん温存手術後11年が経ち、ホルモン療法も卒業しました。 2019年2月の乳房再建についての記事をアメブロに更新しています。 はてなのブロともさんブログにアクセスしやすいようにこちらも開設して、自分のアメブロ記事のダイジェストを投稿しています。

予科練平和記念館

予科練平和記念館 に行ってまいりました。
場所は 茨城県稲敷郡阿見町 にあります。
2010年2月2日に開館したモダンな建物です。 すぐ近くに住んでいるのに
新しく、予科練平和記念館 がオープンしたことをつい最近まで知りませんでした。

駐車場のすぐ横が 零戦の実物大模型の格納庫です。

イメージ 1

イメージ 2

窓がたくさんあるモダンな建物です。 どこからでも空が見えるというコンセプトだそうです。

イメージ 3

建物に入ると内部は写真撮影禁止でしたので、以下の写真はダウンロード公開されているリーフレットから

イメージ 17

写真家の土門拳氏が、予科練生と2か月一緒に生活して写真を撮ったものが公開されていました。
土門拳氏は、終戦時に写真をすべて処分してしまったそうですが、予科練生が保管していたものが
展示されています。  二週間に一度の日曜日のお休みに1円持って外出したときには
お汁粉やお饅頭や大福などの甘いものを食べて、近所の大きな農家の人がもてなしてくれた倶楽部に
行くのが楽しみだった普通の少年たちの様子がわかります。 予科練から出す手紙は
すべて検閲されるので、本音を書いた手紙は農家の人に託して実家に送ったそうです。

イメージ 4

予科練では、14歳半から17歳で選抜された少年たちが勉強しています。これは、実験風景です。 
<追記7/26 実験の内容を失念してしまったので問い合わせたところご回答をいただきました。
実験名 
○煙風洞実験『けむりふうどうじっけん』
実験の内容
○飛行機が飛んでいるときに翼面にどのような気流が生じるのかを実験するものです。
 写真向って左からお線香の煙を流し、気流の動きを目で見て確認します。
追記ここまで>
教科によっては、現在の大学1-2年生ぐらいのハイレベルの授業が行われたということです。
最初は3年間かけて教育しましたが、どんどん短くなって、戦争末期は6か月にまで短縮されました。
イメージ 5
散髪風景 現代でも通用する美少年ですねー

イメージ 6

軍艦の中では空間を有効に使うために、ハンモックで寝るので
予科練生もハンモックで眠っているお写真がありました。
時間割や入試問題の展示もありました。

これは 人間魚雷の回天の実物大模型です。
特攻隊って戦闘機零戦と桜花だけだと思い込んでいたのは違いました。
爆弾を積んだベニア板モーターボードの震洋(しんよう)も特攻作戦のひとつでした。

元甲種第14期飛行予科練習生の戸張礼記(とはりれいき)」先生88歳にお話を伺いました。
『特攻隊の最後は、飛行機も船もなくなって、地面に穴を掘って爆弾を抱えて人間が潜んで
本土にやってきた外国の戦車を爆破する訓練まで行っていました。
平和は、自然にあるものではなくて意識して守らなくては続かないものです。』
海軍の別れの挨拶 帽振れ(帽子をとって頭上で円形にまわす)を実演してくださいました。
イメージ 7

予科練では、少年たちがすぐに飛行訓練をするのだろうと思っていたことも誤解でした。
卒業して「予科」が取れて練習生になってから初めて飛行訓練が始まります。
予科練は、海軍飛行予科練習生の名の通り、パイロットになる前に
知力、体力、心力を鍛える教育が行われていた全寮制の教育機関だったと理解できました。

予科練平和記念館から 歩いてすぐのところにある
陸上自衛隊武器学校土浦駐屯地の有刺鉄線の柵の中に入ると
庭園雄翔園と予科練記念館(雄翔館)があります。
昭和43年開館なので私が小さいころに父に連れられて来たたこともあるし
息子が小さい時に連れて来たこともありました。

イメージ 15

イメージ 9

入り口には山本五十六元帥の銅像が建っています。 
亡き父はよく山本五十六元帥の話をしていました。 
アメリカに留学した経験があり、日米の国力の差を良く知っており開戦に強硬に反対したために
国内にいると、戦争をやりたくて仕方がない勢力に暗殺されてしまうので
連合艦隊司令長官として、海外に赴任し真珠湾攻撃をはじめとする初期の日本軍の優勢を
指揮しました。 有能な指揮官であったために米軍によって撃墜され戦死しました。
山本五十六元帥の銅像は平成16年に再建されたブロンズ製の新しいものです。
イメージ 8

昭和18年に建てられた山本元帥の初代銅像はコンクリート製で、
終戦時に進駐軍から撤去破壊命令が出ることをおそれて
上下に分けられて上部は霞ヶ浦に沈めて隠されました。
イメージ 19
上部は昭和23年に引き上げられて、新潟県長岡市の生家に渡り、
現在は広島県江田島(旧海軍兵学校)に保管されています。 
平成14年、行方不明だった下部が56年ぶりに地中から発掘されて、
平成16年に再建されたブロンズの山本元帥二代目銅像の台座に納められています。

イメージ 10

雄翔館のほうは、フラッシュ撮影が禁止となっていましたので
フラッシュなしで何枚か撮影してきました。
こちらは、予科練出身の特攻隊員の、戦没者名簿、遺影、遺書、遺品が展示されています。

イメージ 11

19歳や20歳の若さでお国のために命をささげた特攻隊員たちの遺影を前にすると、
私も友人も無言になりました。

イメージ 12

海軍の制服はもともとはセーラー服であったものが不評で
7つの金ボタンの詰襟制服に変更したところ志願者が増えたのだそうです。
現代の私立学校にとっても制服は募集上重要なファクターです、
この時代の海軍も制服は応募者数に影響したのですね。

イメージ 13

イメージ 14

山本元帥銅像霞ヶ浦と太平洋を見守っています。
イメージ 16

記念館の外に出ると上空を戦闘機ではなく、成田空港を離発着する旅客機がしばしば
通過し平和な現代に生きていることに感謝しました。

イメージ 18

予科練平和記念館のスタッフによる説明が日曜日の2時からということで
それにあわせて来館したので、どちらも時間が足りなくてゆっくりは見られませんでした。
もう一度、朝からお弁当持ちで来て、予科練生の作文をゆっくり座って読み、
雄翔館の展示も時間をかけてじっくり拝見したいと思います。