LAVENDERの日記

乳がん温存手術後11年が経ち、ホルモン療法も卒業しました。 2019年2月の乳房再建についての記事をアメブロに更新しています。 はてなのブロともさんブログにアクセスしやすいようにこちらも開設して、自分のアメブロ記事のダイジェストを投稿しています。

父が永眠しました

父(ラベンダーの実父)が永眠しました。
2013年11月24日 日曜日 午後7時42分 享年84歳

器質化肺炎・胸膜炎 が主な病気ですが
11月20日の医師からの説明では、他の病名も書いてありました。

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最後となった24日の日曜日の父は朝から息苦しいとパニック状態でした。
看護士さんから、「肺の病気の人の最後はみなさん苦しむ」と後から聞きましたが
目の前で父が苦しんでいるのを見ていて何も出来ず見守るだけで家族もつらかったです。

・脳は正常で意識がはっきりしている
・心臓は動いている

という状態で、肺に水が溜まって酸素濃度が下がるため、脳が緊急事態を察知して
父は、「水を飲みたい」 「(胸が)苦しい」 「つらい」 「頭を上げてくれ(ベッドの頭を起こして欲しい)」
「酸素マスクを(うっとうしいから)取ってくれ」ということをずっと訴え続けました。
私も弟も何度も、父の目頭に光る涙をぬぐいました。
今から考えると、亡くなる数時間前の人とは思えないほどの力強さで私の腕をつかみ
酸素マスクを浮かせてくれと口のところに持って行きました。 家族で交代で
マスクを浮かせて持っていると、酸素濃度が下がってきてアラームが鳴って
ナースステーションにも通知され看護士さんが飛んできて、
マスクはぴったり顔につけるようにという指導が入ります。
父の要望どおりに、ベッドの頭を起こすと、血圧が下がって(意識が遠のく?)
しまうため、上げないようにという指導もされました。 酸素濃度が下がると
酸素吸入マスクの酸素濃度のダイヤルを上げていきます。 入院したときには3からスタートした
ように覚えていますが最大は15まで。 血圧が下がると、血圧を上げる薬が
投与されます。 心臓が止まるまで、呼吸が止まるまで、どんなに父が苦しんでも
治療が続けられます。 家族は見ていられませんでした。 話しかけると
意識がはっきりしており、YES NO の意思表示をします。

わき腹のところをマッサージしてくれという父のリクエストで
弟がマッサージをしています。 うっ血?して皮膚が真っ赤になっていました。 

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弟は、中3男子、小6女子、小4女子の三人の子供を連れて見舞いに来た朝にこの状態となり
すでに朝の9時から7時間が経過した午後4時過ぎに弟一家が一旦帰宅しました。
夕方になると父は少し落ち着きました。 というか昏睡状態になったのかもしれません。
母と私が残りましたが、78歳になる母(写真右)も疲労がピークとなり
「疲れた、帰りたい」となり、看護士さんに「状態が悪くなるようだったら連絡します」と
言われて、病室を後にしました。 その約1時間後に「血圧下がってきましたので来て下さい」と
ナースステーションから呼び出しがあり、駆けつけてみると5分前に父の呼吸と脈が止まったと
いうことで亡くなる瞬間に間に合いませんでした。 体に触れると温かく亡くなったとは
信じられませんでした。 ほどなく医師が来て、聴診器を父の胸に当てて
「瞳孔反応が無い」ことを家族に見せ、死亡を確認して死亡時刻は7時42分となりました。

前日、私が昼からの付き添いを終えて面会時間終了時間の夕方7時に
眠っている父を起こさないよう物音を立てないように仕度してそーっと病室を出ようとすると
父は、「おやすみ、気をつけて帰って」と私に声をかけました。 亡くなる1時間前も意識はあり
私と母が病室を出たことはよくわかっていて、さぞかし心細かっただろうと思い悔やまれます。
最後は、手を握って父にひとりぼっちではない安心感を持って旅立って欲しかった。

父は、5月末に入院して一度は歩けるまでに回復して、9月から自宅療養をしていました。
ひとりでお風呂に入れるほどでした。 10月23日に予約診察を終えて、弟と母と
3人で外食して、好物の天ぷらの和食を食べて帰宅しました。 その日の夕方に
意識障害で倒れ、ドスンという音を聞いた母がすぐに救急車を呼び、救急隊の
心臓マッサージと酸素吸入で蘇生しました。 そのまま入院しましたが
意識の戻った父は、「どうして病院に居るのか、なぜ倒れたのかわからない」と
何度も言っていました。 いわゆる走馬灯現象も体験したということで、「今まで見たこともない夢を
一度にたくさん見た」と言っていました。 救急隊の到着が遅れたらそのときに苦しまずに帰らぬ人になっていた
のかもしれません。 蘇生して意識が戻ったものの、その後の病院の入院生活は
5月末からの入院生活とはフロアが違い、看護士さんたちはクールな感じで
「ひとりで入院しているのがつらい。飽きる」と言っていました。 
倒れてからの約一ヶ月の入院後に壮絶な苦しい最後を迎えることとなりました。 
肺の病気の人が最後に何時間も時間を掛けてゆっくり窒息死する苦しみを本人に与え
家族に見せることを、医療の力でどうにか改善できないものかと強く思いました。

21年前の話になりますが、私は、出産のときに800ccほど出血した時点で意識が遠のき、痛みを感じなくなり
非常に安らかな気持ちになり、「このまま死ぬんだなあ。出血多量で死ぬことはとても
楽なものだな」と思いました。 すると、「帝王切開に切り替えましょう」という医師の声が
聞こえて現実に引き戻されました。  その体験から人生の最後は静かに息を引き取るものだと
思っていました。 父の最期のような苦しむ臨終の場合もあると今回知りました。
親はいつまでも長生きして欲しいと思いますが、このような最後の苦しみを見せられると
長く苦しんで欲しくはないと複雑な気持ちです。

実家の母は運転が出来ず、病院に行くのは体力的にも大変で、弟は高速で1時間ほどかかるところに
住んでおり、私が一番病院に近く、5月末から、今生の別れと覚悟を決めて、毎日病院に通いました。
9月に自宅療養になったときには少し介護の肩の荷がおりたとほっとしたものでした。
世の中には大変な介護をしている方がたくさんいて、私がした介護はそれに比べたら
ずっと楽だったのだろうと思います。 でも、仕事もしながら、家族の中で一番頑張りましたと
このブログ記事の中でだけこっそりほめてあげたいです。

お父さん、これからは、天国からみんなを見守ってください。 

父は筑波学園病院に入院していました。
最後に父がこれほど苦しんで亡くなり
家族は窒息死する様子を見せられたことに
どうにも納得がいかなくて、私のかかりつけ
つくばセントラル病院の主治医に聞いてみました。

「その後回復の見込みのある状況の人だったら一時的に苦しくても
仕方がないと思いますが、延命治療はしないというお約束の場合
セントラル病院は、末期の緩和ケアに力を入れているので
もっと、本人の苦しさを取る方向で対応すると思います。
病院の考え方によって違います。 本人が頭を上げて欲しいというなら
『寿命が数時間短くなるかもしれません。』と家族の了解を得て
本人が苦しくないように意識がうとうとする程度に頭を上げると
思います。 日曜日と言っても、主治医に連絡が行っているはずだし
当直医が居るので、対応できます。」という回答でした。

ロールバックしてやり直しはできなくて今更どうしようもないです。
今後そういうシチュエーションに出会うことがあるならばより良い対応をしたいと思います。
筑波学園病院は治療専門で、末期の緩和ケアはしない病院とわかりました。
たしかに、入院中に、「当病院は急性期の治療を行う病院です。 
安定したら他の長期療養型の病院に移ってください。」ということを
たびたび言われました。 1回目の入院では、歩けるほどに回復して
自宅に帰ることが出来ました。 2回目に倒れてもう、回復の見込みが無い
とわかった時点で、末期の緩和ケアに力を入れている病院に移れたらよかったです。
そういうことも経験してみないとわからないです。